# 資料の調査と、自分の言語感覚と―「向上される」をめぐって

「向上する」

という日本語は自動詞のみで他動詞はない。だから「英語力が向上する」とは言うが「英語力を向上する」とは言わない ―― ずっとそう思ってきたし、見かければ修正してきた(QA/レビューでも、授業などでも)。

実際に目にする機会はそうないのだが、つい最近はとうとう「~が向上される」という受動態の使い方に遭遇した。しかもそれを指摘したところ「調べたが、そういう言い方はある」という反論が返ってきて*1、ますますのけぞる展開になった。Facebookで訊いてみたところ、「向上される」という訳を見たことはあるという同業者もいらっしゃる。

たしかに、日本語の自動詞・他動詞は微妙なケースが多々あって、本格的にそこに立ち入ると泥沼化しそうなんだが、ここはとりあえず、ごくごく社会一般のレベルで話を進めたいと思う。

反論してきた方がどんな範囲を調べたのかは分からない。"ネット検索"すれば、きっと、いくらでも例はあるのだろう。

ざっとこんな感じだが、今どき、

Google検索の件数(だけ)を鵜呑みにする

翻訳者はいないはずだ(このスクリーンショットについては、後ほど)。

では、こういうとき、どんな情報を拠り所にすればいいいのか。

何をどう調べるかは人それぞれだろうが、〈自分の言語感覚〉と〈調べた結果〉とを天秤にかけたうえで、結局のところは

自分自身が判断する

のだとしか言いようがない。であるからこそ、辞書を引こうがMTや生成AIを使おうが、最終的な訳文については

翻訳者自身が責任を負う

ということになる(法的とか経済的な責任という話ではなく)。MTや生成AIの出力した"翻訳"と人間の手による翻訳の決定的な違いは、ここにもある。

ということで、言いたいことは書いたのだが、せっかくなので「向上する」について調べた結果を並べておく。

まず、国語辞典から。

おおかたの予想どおり、「向上する」に他動詞というラベルを付けている国語辞典はない*2

ただし、三省堂『現代新国語辞典』第六版だけが唯一「他」のラベルを付けていた。

〈名・自他動サ変〉[程度が] 前よりもよくなっていくこと。また、よくすること。「学力が―する」|類| 進歩・進化 |反| 低下

ラベルだけでなく、語釈にも「よくする」と書かれている。これはかなり異例だった。ところが、昨秋に出た同辞典の第七版ではこうなっている。

〈名・自動サ変〉[程度が] 前よりもよくなっていくこと。また、よくすること。「学力が―する」|類| 進歩・進化 |反| 低下

おお、「他」のラベルが取れたではないか!……のはいいのだが、よく見ると語釈には「また、よくすること」が残っている。これはたぶん、編集時点の取りこぼしだろう。

ということで、国語辞典的を見る限りでは「向上する」には自動詞用法しかない、と言ってよさそうだ。めでたい、めでたい。

 

だからといって、まだ安心はできない。次はコーパスサイト

こういうときは出現形で引ける「少納言」のほうが便利(活用による語尾の違いは判断してくれる)。

(クリックで拡大)

6件のヒットがある。この件数を信頼するかどうか、ここが「自分自身の判断」の分かれ目になるのだろう。ただし、この場合に限っては、6件中4件までが同じ著者である点には注意が必要という気がする(しかも、すべて1950年の用例)。

ちなみに、日本語のコーパスといえば『てにをは辞典』も定番だが、こちらだと他動詞の用例があるかどうかまでは確認できない。

次は、ジャパンナレッジの全文検索。

活用形までは考慮してくれないので「向上され」で検索してみると、なんと9件がヒットする。無視できない件数……だろうか。微妙なところだ。出典別に見ると、

『日本大百科全書』(小学館)が3件、『世界大百科事典』(平凡社)が3件、『デジタル化学辞典』(森北出版)が1件、『新選漢和辞典Web版』(小学館)が1件、「明治文学全集」が1件

となっている。百科事典の項目はだいたい専門家の先生が執筆するので、日本語に多少のゆれやブレは出てくるものなんだろうか。

最後は、青空文庫も全文検索してみる。サイトに行くと全文検索できるので、これはありがたい。私は手元にEPWINGデータがあるのでそちらを使った*3。結果は同じで、4件。内訳は、中谷宇吉郎が1件、 宮本百合子が3件(初出年は1939~1946年)。「少納言」での検索結果もそうだったが、こちらでも用例が一人の個人に偏っている点は押さえておくべきだろう(ちなみに、ジャパンナレッジの「明治文学全集」でヒットした1件は、青空でも見つかった宮本百合子の用例だった)。

こうして見てくると、「『向上する』に自動詞の用法はない」と断言できるかどうか、ちょっと雲行きが怪しくなってくる。もうひとつ、国会図書館の NDL Ngram Viewer も確認しておく。

この出現傾向をどう考えるか、ということになると、もう通常の翻訳業務の範囲を超えそうだ。1941-1949の間に0まで落ち込んでいるのは、単に戦争のせいだろうし、そこから右肩上がりで上がっていくのが、はたして日本の復興と経済成長に比例しているのかどうか、そこはすべての資料にこと細かに当たる必要がある。

この Ngram Viewer を除くと、国語辞典およそ20点、コーパスサイト、ジャパンナレッジ、青空文庫までを調べるのにかかったのは小一時間ほど。では、その結果を見て、最終的に自分は何を拠り所にして判断を下すのか? 翻訳者が問われるのは、つまりそういうことだろう。「向上される」でも間違いではないと主張する方がいらっしゃるのであれば、「はい、そうですか」というしかない。直すけどね^^;

結局のところ、翻訳でも執筆でも、自分で書ける内容は、

自分自身の言語経験、言語感覚

からしか出てこない。そのうえで自分が選択したことばについて責任をもつ、それが翻訳者という職業なんだろうと思う。「直すけどね^^;」と書いたが、それは私自身の言語経験と言語感覚から来た判断であり、自分はその責任を負うつもりで修正を加えた(エラーとして記録した)。

この記事の冒頭で、"向上される" をGoogle検索した結果のスクリーンショットを載せておいた。トップに見えているのは、例によってWeblioのコンテンツだ*4

「向上される(こうじょうされる)」の意味や使い方 わかりやすく

と書かれたリンク先に飛んで表示されるのは、こんな内容だ。

はたして、この情報は信頼できるのか。「日本語活用形辞書」と書かれた箇所はクリックできるので、そのリンク先情報も確認してみてほしい。

サ行変格活用の動詞「向上する」の未然形である「向上さ」に、受身・尊敬・自発・可能の助動詞「れる」が付いた形。

と説明はされているが、この説明を見て納得してしまうのか。

日本語活用形辞書はプログラムで機械的に活用形や説明を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。

などという Disclaimer のある情報を信頼する気になるのか。

判断するのは、すべて自分自身だ。

おまけ。国語辞典で「結果」を引いた結果をすべて載せるとスペースをとりすぎるので、Evernote の記事を共有してみた。私が、辞書を引いて気になったことがあると記録している記事の一例。興味があればどうぞ。

www.evernote.com

*1:実際のやり取りは英語だ。海外ベンダーだと、日本人どうしでもこういうことになる。

*2:念のために言っておくと、『広辞苑』や『大辞林』などの中辞典は動詞に自他のラベルを付けていない。小型国語辞典にも付けないものがある

*3:青空文庫のEPWINGは、大久保さんが公開してくださっていましたが、今は公開されていません。近日中に翻訳フォーラムが再公開する予定です

*4:スクリーンショットはFirefoxでの画面。Chromeだと、トップには生成AIによる出力が表示される場合もある