# 世間ずれ、または変わりゆく日本語

世間ずれ

という言葉が思わぬ意味で使われる現場に実際に遭遇した。発言者は、わが長男。先日たまたま帰ってきて雑談しているとき、「世間の常識とずれている」という意味で口にしたのだった。

数日たって、ふと気になって国語辞典を引いてみたら、確かにそっちの意味もだいぶ載っていることがわかった。ざっとあげてみる(以下、引用中の赤字指定は引用者)。

(名)スル
世の中でもまれたため、世知にたけていること。 「―していない若者」 〔近年、「世間の常識から外れている」の意で用いられることがある〕【大辞林四】

大辞林はやはり中立的な記述で、誤用とは指摘しない。なお、「世間の常識から外れている」の意味は、第三版(スーパー大辞林3.0)までは載っていなかった。

[名・自サ変]実社会でもまれ、ずるがしこさを身につけていること。
注意| 世間からずれていることの意で使うのは誤り
「× 世間ずれした突飛な発言」【明鏡三】

おなじみの明鏡(用例は一部省略)。しっかり誤用認定されている。第二版(2010年)から変わっていない。

⦅名・自サ⦆
一 [世間擦れ]実社会で苦労して、わるがしこくなること。
二 [世間ずれ・世間ズレ]〔俗〕世間の動きとずれていること。【三国八】

三国は、〔俗〕ラベル扱い。それぞれに漢字かな表記を当てているところがおもしろい。つまり「世間擦れ」のほうは「世間でこすれている」という意味、「世間ずれ・世間ズレ」のほうは単に「ずれ|ズレている」の意味をそれぞれ持っていると言いたいらしい。ちなみに、三国七では〔俗〕ラベルではなく〔あやまって〕という扱いだった。そして、この「〔あやまって〕世間の動きとずれていること」という記述は第三版(1982年)までさかのぼることができる。1982年の時点ですでにこちらの用法を載せていたというのは、かなり早い部類ではないだろうか。さすがの三国。

〈名・自動サ変〉①実社会で苦労して、わるがしこくなること。②[誤って]ものの考え方が世間一般とちがったり、世の中の動きにおくれていること。|注意|①が本来の意味。【三省堂 現代新国語六】

同じ三省堂でも『現代新国語辞典』は「誤り」とはしない。

〈名・する〉世の中でいろいろと苦労して、ぬけ目がなくなること。
注意|ものの考え方などが一般からずれているねという意味で使う人が増えているが、本来はあやまり。【例解新国語十】

例解新国語は、学習辞典らしく「本来はあやまり」と指摘する。これより古い版はまだ調べていない。

そして、『日本国語辞典 第二版』と『広辞苑 第七版』を筆頭に、『岩波国語辞典 第八版』『小学館 現代国語例解辞典 第五版』『旺文社 国語辞典 第十一版』『小学館 新選国語辞典 第十版』『角川 必携国語辞典』などは、変化したあとの意味を採用していない。こうして見ると、新しい使い方を(まだ)認めていない辞典もまだ優勢のようだ。

と、ここまではよかったのだが、『デジタル大辞泉』を見てびっくりしてしまった。


(デジタル大辞泉ジャパンナレッジ版より)

なんと、文化庁の調べでは、すでに平成25年(2013年)の時点で本来の意味と転じた意味とが逆転していたらしい。

 

この話をツイートしたら、私のタイムラインでは驚きの反応のほうが多かった。また、いくつか情報もいただいて、たとえば同じ文化庁のサイトを見ると、「文化庁月報」の平成24年8月号がこの話を取り上げているとのこと。

文化庁 | 文化庁月報 | 連載 「言葉のQ&A」

こちらの記事には年代別の調査結果が載っていて、40代以上では本来の意味にとらえる人が多く、30代以下では完全に逆転しているのだという。

また、ジャパンナレッジに連載されている神永暁さんのエッセイ「日本語どうでしょう」も、2014年10月20日付でこの話を取り上げている。

 

さて。「日本語どうでしょう」で神永さんも最後に書いていらっしゃるとおり、「この流れを食い止めることは不可能」だろうと私も思う。言葉というのは年々歳々、どんどん変化していくものであって、私たちはそれを日々、目の当たりにしているということなのだろう。

人間の目にはなかなか変化がとらえられない植物も、長時間撮影してそれを高速再生すると、まるで動物のような動きを見せる。もっと長いスパンなら、地球の造山活動も、人の目ではとても追えないが、同じように長時間定点撮影して高速再生したら、その変化をとらえることができる。

それと同じで、今の私たちが明治の言葉、江戸時代の言葉……、中世の言葉、上古の言葉を振り返ってみると、変化の過程が見えないから現代日本語との差が大きいと感じるが、実はそうやって変化していく言葉をリアルで見ていた人たちは、やはり、言葉の変化を嘆いたり、「この流れを食い止めることは不可能」と達観したりしていたに違いない。

 

こうした変化であれば、人間の言語ではごく自然なことなのだろう。だが、もしかしたら、これからの日本語は、そういう自然な変化とは本質的に違う、そして
不可逆的な変容
をとげてしまうかもしれない(すでに進行している気もする)。

この本の話はまだ書けないけど、読み終わっていちばん感じているのは、そのことだ。

機械翻訳を研究している方々の思いは理解できる。が、日本語というかけがえのない文化を、自然に起こりうる変化以上に短期間で大きく変えしまうかもしれない可能性ということには、思いを巡らせていらっしゃるのだろうか。それとも、自分たちにそんな影響力はないと楽観していらっしゃるのだろうか。