※はじめにお断り
このブログは、たまたま翻訳という職業に就いている個人が、翻訳と翻訳まわりについて自分の知識やノウハウを紹介したり、翻訳とは関係なくブログ主の日常や趣味を綴ったりする場である。ブログ主は、これもたまたま翻訳関連の団体で理事を務めているが、本ブログの記事はすべて、高橋個人としての発信であり、翻訳関連団体を代表した意見ではない。もともとそういう前提なのだが、特に今回はその点を改めてお断りしておく。
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10月に入ってから、ある翻訳会社が主催する「翻訳グランプリ」なるイベントが業界で話題になっている。リンクは貼らないでおくが、"翻訳グランプリ" でフレーズ検索すればトップに表示されるはずだ(10/10調べ)。
優勝者には、200万円分の翻訳・ポストエディット・チェックのお仕事をご依頼します。
ということなので、これだけ見ると、なかなかおもしろいリクルート戦術だと思わなくもない(ポストエディットまで入っていることの是非はひとまずおく)。「いい翻訳者がいない」というのは、この業界で何十年ものあいだ変わらず聞かれる不思議なフレーズであり、優秀な翻訳者を確保する効果はあるのかもしれない。*1
ところが、「優勝賞品」として提示されている具体的な待遇が、業界の常識から考えてありえない水準なのだ。この条件で「優秀な翻訳者」が集まるのかどうか知らないが、少なくとも、
翻訳会社が自ら翻訳業界を貶める行為
としか思えない。同業者の多くがそう受け止めている。
募集要項に示されている待遇はこうだ。
- 翻訳単価は「8~10円(税別)」の間でご経験に応じて設定
- ポストエディット作業は1900円(税別)/御時給
- チェック作業は1300円(税別)/御時給
「御時給」という奇妙な日本語も話題になっているが、それもひとまずおく。
これが、通常の翻訳者募集だったら、今さら驚きはしない。翻訳単価が1桁台というのは今では珍しくないし、時給がコンビニのアルバイト並みという話もときどき耳にする。
ちなみに、さっき昼飲みしてきたサイゼリヤにもこんな求人広告が貼ってあった。
だがしかし、だ。*2
これは、いやしくも「翻訳グランプリ」と銘打たれたイベントなのだ。「選考基準」にはこう書かれている。
・人間にしかできない、読み手の心に届く翻訳をできる方
・ビジネス・マーケティング分野でクライアントの世界観に適した翻訳をできる方
ということは、それだけの選考基準を満たし、そのうえで他の応募者をもしのいで優勝するくらいの翻訳者について、この会社は
時給1,300円の価値しか見いださない
と宣言しているわけなのだ。
第一、実際の条件がこんなだったら、「200万円分のお仕事」という優勝賞品が、一定量の案件を保証してくれるどころか、その金額まで安価にこき使われかねない負の枠組みとしか聞こえなくなるではないか。
この問題をひとあし先にNote記事にしてくだった久松紀子さんもこう書いていらっしゃる。
せめて、翻訳20円/ワード、チェック3000円/時、MTPE 5000円/時であってほしかった。
まったく同感だ。
繰り返すが、普通の翻訳者求人だったら、ありえなくもない水準だ(良いとは言わない)。翻訳や翻訳チェックの単価はこの20年で下がり続けており、その傾向が逆転する要素はかけらもないのが、残念ながら現実だ。
だが、これだけの「グランプリ」をわざわざ実施して翻訳者の力を試しておきながら、その優勝者に対してこんな待遇を提示するというのは、
翻訳という職業に対する全面的な侮蔑
であり、ひいては、ただでさえ厳しくなりつつある
翻訳業界の将来性を自ら閉ざす
に等しい行為なのではないか。
今からでも間に合うはずなので、優勝者に対する待遇を再考してはいかがだろうか。
※待遇を示さないという手も考えられるが、今となってはそれはこのうえない悪手だ。
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ここまで書いてきて、もっとイヤなシナリオに思い至ってしまった。
この翻訳会社が、実は翻訳業界の将来性を周到に見据えたからこそ、こんな条件を設定したという可能性だ。
つまり、この「グランプリ」は
どれほど優秀な翻訳者でも、今後はこの
程度の価値しかない
という考え方を、翻訳者と翻訳業界に向けて宣言しているのではないか、ということである。
大規模言語モデル(LLM)の驚異的な発展で、機械翻訳も生成AIもまだまだ進歩が期待できそうだ。これまでの産業翻訳のかなりの部分は機械に置き換えられる。それを踏まえれば、人間の翻訳にこれまでのような単価を支払う必要はもうない。だから、優秀な翻訳者だとしても上限はこんなもんです――そういう上限設定を、この会社は突きつけているのかもしれない。
実際、産業翻訳の世界についてそういう未来を思い描くのは十分に可能だ。だが、そうだとしても、それをこんな形で示すというのは、あまりにも品性が疑われる。
会社名は出していないが、決して小さい企業ではない。ある団体のイベントスポンサーになったことも確かあったはずだ。自分たちが属する業界に対する影響を、ある程度は考慮してもいいのではないだろうか。