「辞書引き学習」という指導方法があるのはご存じかと思います。深谷圭助先生(中部大学)が提唱し、国内はもちろん、海外でも高く評価されて普及しつつある指導法です。
この指導法をめぐる国際的な研究の成果がこのたび三省堂から刊行され、それを記念したシンポジウムが昨日(12月22日)開催されたので、ご挨拶も兼ねて聞いてきました。
シンポジウムは、本書の編者である深谷先生と吉川先生、神永暁さん、瀧本多加志さん(代表取締役社長)の挨拶から始まり、国内と海外(イギリス、シンガポール、インド)での活用事例が次々と紹介されました。
指導による効果はおおむね予想どおりでしたが、詳しく聞くとやはり参考になります。「和製英語であることを認識した」「類語のおもしろさを知った」「語句の多様性に気づいた」「紙の辞書ならではの発見があった」――いずれも高橋が整理した言い方――など、どれもわたしたち翻訳者が常日頃からしっかり認識しておくべき点ばかりです。こういう認識を小学生の頃からもてるって、すばらしい。辞書を引かせたあとで、先生方が工夫して実施しているいろいろなアクティビティも楽しそうで、ああいう指導を受けていたら、きっと一定以上の言語能力が身につくんだろうなあと思います。
ちなみに、「辞書引き」は Jishobiki という形でそのまま使われていますが、最近は Lexplore という英語の造語(LEXicon + exPLORE)も使われ始めているのだとか。
で、そんな教育現場の話を、ただの翻訳者が聞きにいっておもしろかったのか、と思われますよね。その話を書こうと思っています。昨日の話を聞いていて真っ先に考えたのは、
翻訳者も辞書引き学習
してみたらいい、ということでした。
辞書引き学習は、主に小中学生に対する指導法です。
児童・生徒が、紙の辞書を使い、付箋を貼りながら、そこにいろいろと書き込んでいく。そういう身体性を伴う形で、早い時期から辞書そのものに、そして辞書を引くという行為に慣れさせる。その言語体験を通じてパッシブ語彙とアクティブ語彙を増やしていく。ざっというと、こうなります(あくまでも、わたしなりのまとめ方です)。
一方、わたしたち翻訳者は、あくまでも仕事のために(必要に迫られて)辞書を利用するのであって、紙である必然性はないし、それどころか効率重視なんだから電子媒体を優先するのが当たり前。辞書引き学習のようなアプローチはあまり参考にならない――そう考えている翻訳者がいても不思議ではありません。もっというと、辞書引き学習は、辞書を引くこと自体が目的化している、つまり「辞書を引くために辞書を引い」ている感じで、翻訳者にとってはまったく無縁なのでは、とも思われていそうです。
でも、翻訳者も実は、もっともっと
辞書を引くために辞書を引く
ことがあってもいいんじゃないか、と改めて強く感じています。
翻訳をしながら「必要に迫られて」辞書を引いているだけでは、たぶん、辞書をフルに使いこなせるようにはなりません。辞書は翻訳者にとって最大の武器であるはずなのに、それを活かせないことになります(それでもいい翻訳をしている方もきっといらっしゃるのでしょうけど)。
だったら、ときには小中学生の辞書引きのような気持ちで辞書に向き合ってみてもよさそうです。もちろん、紙の辞書を使って付箋を貼りまくるというスタイルを完全に踏襲する必要はない。電子媒体でもいい。でも、「知りたい語句、確認したい語句を調べ」て終わりではなく、もう少しつっこんで活用するだけで、自分の言語体験がずっと広がるはずです(辞書引き学習の指導を受けた小中学生のように)。
- 気になる語句を、複数の(できるだけ多くの)辞典で引き比べる
- 引き比べた辞典ごとの語義をリストにして整理する
- 辞典ごとに語義と語法と用例の対応を調べる
- 訳しにくい語について、徹底的に各辞典の用例を精査する
- 用例に付いている訳の妥当性を考える
- よく使う辞典の特徴の把握に努める
- コラムを集中して読む
などなど、ちょっと時間を長くとって辞書に接してみる。いわば、
翻訳者にとっての辞書引き学習
です。こういう接し方をしていれば、次第に
- 辞書からどんな情報を読み取るのか
- 手持ちの辞書にはそれぞれどんな違い(個性)があるのか
- 場面ごとに各辞書をどう使い分ければいいのか
- 手持ちの辞書をどう使えば「効率的」なのか
……ということが自然と見えてくるはずです。長い目で見れば、これが翻訳の力につながることは言うまでもありません。
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ところで、わたしが小学生のころには、もちろん深谷先生の提唱する「辞書引き学習」はなく、せいぜい国語の授業のとき「課題文に出てくる言葉を国語辞典で調べよう」という指導くらいでした。ただ、中学年のときの指導は今でもよく覚えています。「国語辞典で調べた結果をノートに書き出す。ただし、辞典に書いてあるとおりではなく、自分の言葉でまとめてみる」という指導です。この指導はかなり効果的だったのではないかと、だいぶあとになって振り返って気づきました。
翻訳者としての辞書引き学習、ぜひお試しください。