※今回もあらかじめお断り。いろいろと個人名が出てきます。ご本人たちには無断ですが、なにとぞご了承ください。
ひとつ前の記事で、日本翻訳連盟(JTF)理事の入れ替わりについて書きました。JTFの「これから」の話です。
ついでといってはなんですが、日本翻訳連盟(JTF)と私個人の関わりを振り返ってみたくなりました。「これまで」の話です。
日本翻訳連盟との関わり合いはじめ
JTF翻訳祭や翻訳セミナーなどには、フリーランスになる以前にも、翻訳会社に勤めていた頃に何度か参加したことがあります。その頃に面識ができたお一人が河野弘毅さんです。当時はまだ、私の勤務先と競合する(同じ大手クライアントと取引があった)会社にお勤めでした(ちなみに、河野弘毅さんは翻訳業界のキーパーソンともいえる方で、この後も何度か登場します)。
その後フリーランスになり、直接JTFと関わるようになったのは2009年の秋のこと。故・田中千鶴香さんに「スタイルガイドを検討する委員会に入ってほしい」と言われたときでした。準備段階で何度かお会いしましたが、当時の記憶は、いつも雨の中です。
そのご縁もあって、2010年6月には初めて翻訳セミナーに登壇しました。あ、6/10だから、ちょうど今頃です。かっこつけようとして、当時発売されたばかりの初代iPadを使いました^^; 内容は、いま思い出しても冷や汗ものです。
このときの登壇がきっかけで今に至るまで続いている関係がいくつかあります。何社かの翻訳会社とつながったのも、フェロー・アカデミーで教壇に立つことになったのも、当時の担当者が聞きに来てくださったのがきっかけでした。
JTF標準スタイルガイド検討委員会
田中さんから「標準スタイルガイドを作りたい」という話を初めて聞いたときには、なんと大それたことを、と思いました。2009年末から準備して2010年には「標準スタイルガイド検討委員会」を立ち上げ、各社のドキュメント担当者からヒアリングを行ったりしながら、委員長が精力的に標準スタイルガイド(翻訳用)を形にしていきました。最終的にきちんと形になり、今ではこのスタイルガイドに準拠するという案件も着実に増えつつあります。
その後はさらに「品質評価の基準も作りたい」という方向に発展し、委員会も「翻訳品質委員会」と改称されました。残念ながら、田中さんご自身はその思いを果たすことなく2017年に急逝なさいましたが、後を継いだ西野竜太郎さんが、「品質評価ガイドライン」を完成してくれました。その西野さんは、2017年に理事職にも就き、このたびご退任となりました。
田中さんと西野さんの業績は、こちらで形になっています。
JTFジャーナル編集委員
時間が前後しますが、2012年からは、JTFジャーナル編集長(当時)だった河野弘毅さんに誘われて、JTFジャーナルの編集にも関わりました。テリー斉藤さんや遠田和子さんも一緒です。編集長の発案で、委員の一人ひとりがコーナーを持つというスタイル。テリーさんは「翻訳横丁の表通り」と題して、私は「フリースタイル、翻訳ライフ」と題して、いろいろな同業者に寄稿していただきました。これは約2年間続き、今でもバックナンバー(無料)で読めます。
ジャーナル自体はその後スタイルを何度か変え、私自身の辞書に関する話とか、翻訳フォーラムのメンバーによるリレーエッセイなどの連載があった時期もあります。この間には、ジャーナルのデザインを担当したデザイナーの方とか、まったく無料で表紙を担当すると申し出てくれたカメラマンとか、ふつうなら会わなかったかもしれない人との出会いもありました。
そういえば、ジャーナルには編集委員になる前からも関わりがありました。2011年5/6月号のこの表紙にご注目。
右端にTwitterアイコンが並んでいます。河野さんの発案で、当時だいぶ個人翻訳者の間で普及していたTwitterのアイコンを載せはじめたのです。左上の Madhatter が私です(今とは違う)。右下の B は、Buckeyeさんこと、井口耕二さん。2014年3/4月号まで続きました。バックナンバーを見ると、見覚えのあるアイコンが見つかるかもしれません。
その後、私自身は編集から離れ、ジャーナル自体も今ではウェブメディアの情報発信媒体へと変わっています。
翻訳祭との関わり
翻訳祭には、同じ2010年に登壇して以来、なんだかんだと毎年なんらかの形で携わることになりました。2010年は「ローカリゼーション ソリューション 模擬コンペティション」というパネルディスカッションのモデレーター。これは、企画したのが河野弘毅さんでした。2011年には、田中さんや西野竜太郎さんと一緒に、スタイルガイド委員会として登壇。2012年は司会として、2013年はボランティアとしての参加だったようです(あんまり覚えてない^^)。2014年~2016年は、十人十色として3年連続登壇。そして、2016年以降は、翻訳祭実行委員(または大会委員)としてずーっと関わり続けています(自分の登壇は、あったりなかったり)。
そのなかでもエポックメイキングだったのは、私が理事にもなった2016年の翻訳祭です。理事の古谷祐一さん(今回ご退任)が委員長となり、なんと「委員全員を個人翻訳者で固める」という英断を下しました。
禿頭帽子屋の独語妄言 side A: # 第26回 翻訳祭、始動!
お名前は出しませんが、リンク先の写真をご覧ください。素晴らしいメンバーでした。
翌2017年には、私自身が実行委員長を拝命。うれしいことに、前年の個人翻訳者メンバーはそのまま継続し、そこに何人かが加わるという形になりました。
禿頭帽子屋の独語妄言 side A: # 第27回 翻訳祭、始動!
この年は、委員長権限で好き勝手に、委員の皆さんの頑張りによって、関山健治先生、村井理子さん、柴田耕太郎さん、中山裕木子さんなど、かなり豪華な登壇者をそろえられました(同じ勢いで、2018年には京都まで飯間浩明さんをお呼びできました)。10分間で次々と話をしてもらう「ミニ翻訳祭」を試みたのもこのときです。
この2年間を経て、JTF翻訳祭で個人翻訳者向けのコンテンツが増えてきたことは、ご存じのとおりです。これ以降は、委員会を構成する委員が個人翻訳者ばかり、ということはなくなりましたが(今ではむしろ少数派です)、このときを契機として大きく変わったことがあります。
個人翻訳者の発言力が大きくなった
のです。特に、「翻訳祭の成功には、個人翻訳者向けコンテンツの充実が不可欠」という考え方が、委員会のなかですっかり定着しました。その空気が、今日に至るまでしっかり続いています。特に、2018年(京都開催)の実行委員会に中野真紀さんが参加してくださったのは大きかったと思っています。
この間に起きた翻訳祭のあり方の変化こそ、個人翻訳者が "業界団体" で果たせる役割の大きさを私が改めて実感できた経緯でもあります。そういう変化を自分たちで起こせるって、なんか、うれしくありませんか?
理事として
そんなこんなで、いろいろと関わり続けてきた結果、2016年には理事職に就くことになりました。そのときの経緯は、テリーさんのブログに書かれています。
このときまで、個人理事は田中千鶴香さん、佐藤晶子さん、井口耕二さんの三人でした。残念ながら、井口耕二さんは私と入れ替わりでご退任となったので、一緒に活動できた期間はありません。残る二人の個人理事に、テリーさんと私が入って4人の体制になりました。
が、2017年4月には、佐藤晶子さんがお仕事の都合でご退任。同7月には、前述したとおり田中千鶴香さんがご逝去と、いっぺんに寂しくなってしまいました。その穴を埋めるべく、2017年には西野竜太郎さん、2018年には井口富美子さんが就任。これでまた個人理事4人の体制が復活しました。
そのほか、法人理事もいろいろと入れ替わりがあり、2016年の総会当時から6年間で、理事の顔ぶれは大きく変わりました。気づいてみると、私がもう3本指に入るくらいの古株になってしまったようです。肩書きも、いつのまにか「副会長」ということになっていて、ありがたいことに自分の発言をそれなりの重さで受け止めてもらえる、そんな立場になりました。
もちろんそれは、私の手柄でも何でもありません。私が入る以前から個人翻訳者という存在をアピールし続けてくださった先達、今回ご退任となった三人の個人理事、遠因としては翻訳祭という大きなイベントを成功させた個人委員の方たち、そういった皆さんの力で築き上げられてきた土台があって、今の理事会があります。
そこに、とても強力なメンバーが入ってくれることになったのは、前記事に書いたとおりです。
いつになく長い記事になってしまいました。ただの個人翻訳者が"業界団体" に関わるとこんなこともある、というお話でした。自分にとってよかったのかどうか、最終的にはわかりませんけど、個人的にはこういうスタンス、嫌いではありません。