先日、鬼の首を取ったようにこうツイートしてしまった。
新明国、第七版と、第八版でも直っていない誤字見つけた~。
— 高橋聡/禿頭帽子屋@日本翻訳連盟40周年 (@baldhatter) 2021年10月26日
進取
「―の気象に富む」
つまり自分の語彙としては「進取の気性」だろうと思っていたのだ。ちなみにこれは、adventurous developersという表現が出てきて、訳の候補のひとつに挙がった言葉だった(最終的には使わなかった)。
さっそく、斉藤隆央さんからレスをいただいた。
それなんですけど、気象の項目に気性の意味があって用例も進取のになっているので、誤字ではないようです。
— さいとうたかお 「はたらく斉藤」年中無休で放映中☆ (@murasime) 2021年10月26日
こういうネットワークがあるのは、本当にありがたい。自分の無知を拡散せずに済んだ。m(__)m
ということで、今回のお題は、この「進取のキショウ」である。
ひとまず、手元の国語辞典をひっくり返して、「気象」を引く。上のようにご指摘いただくまで、この単語に天気関係ではない意味があるというのを、そもそも知らなかった。以下、赤字は引用者。
① 気性(キショウ)。用例(国木田独歩) → ◆(母ハ)柔和らしく見えて確固(シッカリ)した気象の女でしたが、
②〔気圧・風向・風速・雲量など〕大気中におこる現象。【学研国語】
① 気温・気圧の変化、大気の状態や雨・風など大気中の諸現象。「―観測」気象・天文の言葉
② 気性に同じ。是れ日本国民の―を涵養するに足るもの/日本風景論重昂」【大辞林 四】
① 宇宙の根元とその作用である現象。古事記(上)「混元既に凝りて、―未だあらはれず」
② (→)気性に同じ。樋口一葉、塵中につ記「国子はものにたえしのぶの―とぼし」【広辞苑七】
(3)大気中に生じる物理的な変化や、天気の状態。暑さ寒さ、晴雨など天候の状態。天象。
*風俗画報‐一七三号〔1898〕中央気象台「第一条中央気象台は文部大臣の管理に属し気象に関する事項を攻究し気象事業を統轄す」
(4)「きしょう(気性)(1)」に同じ。
*西洋事情〔1866~70〕〈福沢諭吉〉二・三「自から不羈自由の風に浸潤して、帰国の後も其気象を脱すること能はず」【日国】
ここまで、大辞典と中辞典。用例が、国木田独歩とか樋口一葉とか古めだが、単に大辞典・中辞典の傾向であって、これだけで「気象」のこの意味が古いとは断定できない。
① 天候・気温・風の強さなど、大気の状態・現象。
② →きしょう(気性)。【岩国五、七】
①〔晴雨・風向・風力・気圧・温度などについての〕大気の総合的な現象。-観測・ -条件
② 気性。進取の- 【新明国七、八】
① 大気の状態。また、大気中に生じる雨・雪・風などの諸現象。「━観測」
② 〔文〕気性。【明鏡二】
① 大気の状態。また、大気中に生じる雨・雪・風などの諸現象。「気象観測」
② 気性。【明鏡三】
①⦅天⦆〔風・雨・温度などについての〕大気の現象。
③⦅文⦆やる気。こころざし。「進取の―」【三国七】
① 気温・気圧・晴雨・風など大気中の諸現象や状態。天気。「―観測」
② 人間の性質。気性。【旺国 十一】
以上が小辞典の一部。『明鏡国語辞典』は、第二版で〔文〕というラベルがあったのに、第三版ではなくなってしまった。何でだろう。
このほか、『例解 新国語 十一』や『角川必携』など「気象」の項に「気性」の意味を載せていないものもあるが、まだ大半の国語辞典では「気象=気性」ということがわかるし、「進取の気象」とも書くのだと確かめられる。
……と調べているうちに、今度は越前敏弥さんからもレスをいただいた。
実はわたし、昔から一貫して「進取の気象」で通しているんですが、最近は校正者が「気性?」とか書きこむようになってきて、そろそろ弱気になっています。
— 越前敏弥 Toshiya Echizen (@t_echizen) 2021年10月26日
つまり、知っている人にとって、まったくのあるあるネタだったようなのだ。ますます恥じ入るばかり。
では、「進取」の項で「進取のキショウ」という成句はどう記載されているのか。
発端となった『新明解国語』は、最新の第八版に至るまで「気象」派だ。
今までの慣習にかかわらず、意欲的に新しい事をすること。
-の気象に富む 【新明国八】
いっときは〔文〕のラベルを付けていただけあって、『明鏡国語』では第二版、第三版とも「気性」を採用している。
慣習などにとらわれず、進んで新しいことに取り組もうとすること。「―の気性に富んだ青年」【明鏡二、三】
〔文〕進んで新しいことに取り組む気持ちがあること。「―的・―の気象に富む」【三国七】
もうすぐ出る第八版ではどうなるのか。まっ先に確かめてみたい。
さて、おもしろかったのが『広辞苑』だ。ふだん、仕事中には出番の少ない『広辞苑』だが、こういう言葉の変遷を確かめるときは、たしかにものさしとなりうる辞書なのだろう。
みずから進んで事をなすこと。敢為。「―の気象に富む」【広辞苑五】
みずから進んで事をなすこと。敢為。「―の気象に富む」【広辞苑六】
みずから進んで事をなすこと。敢為。「―の気性に富む」【広辞苑七】
このように、『広辞苑』は最新版で「気性」派に宗旨変えしているのだった。こうなると、越前さんがツイートしているように、校正者が「気性?」と訊いてくるのは当然なのかもしれない。
さらに、『広辞苑』についてはもうひとつおもしろい事実が判明した。上に挙げたのは第五版と第六版がEPWING、第七版のみLogoVista版なのだが、手元にはもうひとつ、PASORAMA対応電子辞書端末「DF-X10000改」*1収録の第六版がある。
みずから進んで事をなすこと。敢為。「—の気性に富む」【広辞苑六、DF-X10000改】
なんと、第六版でありながら、例文はすでに「気性」になっているのだ。つまり、同じ第六版でもどこかの時点で用例が書き換えられたということなのだろう。書籍版のほうで、第六版の刷違いをすべてお持ちの方がいらっしゃれば、どの時点で変わったか判明しそうだ。DF-X10000(10001)に収録されているデータは、おそらくそれ以降のバージョンなのだと推察される。
というわけで、恥かきツイートで始まった顛末だったが、意外とおもしろいオチがついたのでよしとしよう。
【数時間後に追記】
そうそう、『共同通信 記者ハンドブック』の記述に触れるのを忘れました。こちらは、朝イチでFacebookでご注進いただきました。
最新の第13版では、
しんしゅのきしょう(進取の気象)→ 統 進取の気性
として言い換えが推奨されています(もう少し追記予定)。
*1:この型番については、旧ブログのこちらの記事を参照